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「祖母と梅干し」後編
祖母は齢八十を過ぎても矍鑠としていたのだが、
九十を過ぎたあたりから、本人曰くやっと老いを感じるようになった。
春ともなれば家の軒先でワカメを干すのどかな漁村。
そこにあるこじんまりとした施設に居を移し、そのままそこが終の棲家となった。
週に一度、日曜日。
私は祖母に会いにでかけ、お茶を飲みながら世相について話したり、
庭を散歩しながら「もうすぐ梅が咲く頃」とか
「この前食べた高菜のたいたんが美味しかった」とか、
とりとめもない会話をするのが、日課となっていた。
それは永遠に続くかのような、平和でのどかな日々だった。
この世に永遠などないとわかっていても、ずっと続くのだと錯覚してしまいそうなくらい、
幸福な日々だった。
でも、やっぱり永遠はない。
花が好きだった祖母が、いつしか庭にでるのをおっくうがるようになった。
食欲旺盛だったのに、食が細くなった。
他愛もない世間話で盛り上がっていたのに、口数が少なくなった。
チャキチャキの江戸っ子だった祖母の面影が、ゆるやかに失われていく。
私が部屋を訪れても、眠っていることが多くなった。
祖母は起こしたらいいというけれど、気持ちよさそうに眠っているのにそれも忍びなかった。
祖母が起きるのは夕餉の時間で、起きてもお味噌汁以外にはほとんど手をつけることはなく、
私に二言三言、声を掛けたあとは虚ろな瞳でどこかを見つめていた。
礼儀に厳しく、こどものしつけに厳しく、我が家のバイブルだった祖母の姿はどこにもなかった。
もう、昔のような祖母に会うことはできないだろう。
私は自分が腹立たしかった。
このまま命が尽きるの待つしかないのか。
自分には何もできないのだろうか。
幼くして母が亡くなった後、男手一つで私を育てるのは大変だろうと、
住み慣れた街を離れてくれた。
父が再婚した後。
義母と折り合いが悪かった私の味方でいてくれた。
どんなに口やかましくても厳格でも、私に一身に愛情を注いでくれていたのに。
自分の無力感に苛まれながらも祖母のもとに通い続けて、何年が過ぎただろう。
その日の祖母は珍しく食欲があったようで、朝食も昼食もすべて平らげたと、
廊下で顔をあわせた職員さんに声を掛けられた。
祖母が食事をすべて食べるなんて、何年ぶりだろうと首をかしげながら部屋に入ると、
いつもは眠っている祖母が起きていた。
頬を紅潮させて。
私が来るのを待っていたといわんばかりに、身を乗りだして畳み掛けてきた。
今日の朝ごはんにさ、
珍しく美味しい梅干しがでたのよ。
あれは私が作ってた梅干しの次に美味しいかもね。
こういっちゃなんだけど、
ここの梅干しがそんなにおいしくなかったのに、
今日は違ったんだよ。
変えたのかって聞いたら、梅干しを自家製で作ることにしたんだって。
そういえば、あんたがこどものころ、一緒に梅干し食べたでしょ。
あんた梅干し鬼になれた、友達ができたって、はしゃいでたけどね、
あれはあの界隈のこどもたちが仲間はずれのことを梅干し梅干しって、ばかにしてたのよ。
おばあちゃん、近所の人からお孫さんが梅干しって言われないように気をつけてって言われてたからさ。
ほんと、あんたがあんまり嬉しそうだったから、なんにも言えなかったけど。
ほんとあんたは、アンポンタンだよ。
今までとはまるで別人のように、マシンガントークを繰り広げる祖母。
美味しい梅干しを食べて、記憶が蘇ったとしか思えない。
必死にみんなを探してたけど見つけられなくて、途方にくれて。
そしたら祖母が迎えに来て。
帰りが遅いから叱られると思ったけど、梅干しの鬼のことを話したら、何も言われなかった。
家に帰って二人で梅干しを食べたあの日のことを。
世の中には何回も同じ話をする人がいる。
それを立場上、何回も聞かないといけない人がいる、内心うんざりしながら。
でも私は何回でも何十回でも聞くことが出来たし、聞くのが嬉しかった。
この日を境に祖母が幾度となく繰り返すようになった梅干し鬼の話を。
祖母が楽しそうだったから。
こんなにも祖母が何回も何回もごきげんになってくれるのなら、
あの時仲間はずれにされて良かったと思えるくらいに。
祖母に頼んだことがある。
件の梅干しを食べてみたいから、ちょっとおいといて欲しいと。
祖母は頑として聞き入れなかった。
規則で無理と言っていたけれど。きっと本心は違う。
私がその梅干しを食べて、祖母の梅干しより美味しいと思われるのが嫌だったのではと、
推測している。
今となっては、祖母の真意は分からないけれど。
花の江戸っ子、九十九歳と十一ヶ月。百歳を目前に大往生。
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