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創刊 「珈琲を飲むために。」
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珈琲を飲むために。

 



    アートスペース油亀企画展 ​寺村光輔のうつわ展「陰翳礼讃」DM 


初めて珈琲を淹れてくれた人は父だったけれど、
その記憶を辿ってまず浮かんでくるのは、母の顔だ。
とにかく喫茶店のモーニングが大好きで、
私を連れてしょっちゅう行きつけの店に通っていた。
幼い私は、母が飲む琥珀色の飲みもの、
「珈琲」から漂う香りに、顔をほころばせていた。
このすごく良い香りがする飲みものは、一体なんなのかと。
私も飲みたいとおねだりするのに、時間はかからなかった。
もちろん、母は飲ませてはくれない。「これは大人の飲みものだから」と断られた。


心底落胆した私は、喫茶店からの帰り道、いろいろ悪知恵を働かせた。
どうにかして母の目をぬすみ、あのすごく良い香りがする飲みものを口にしたい。
母の顔を見ていたらわかる。きっと美味しいに違いない。


そんなに美味しいものを大人だけが独り占めするなんて、ずるいではないか!


    アートスペース油亀企画展 ​寺村光輔のうつわ展「陰翳礼讃」DM  


それから喫茶店にいくたびに、我々の攻防が始まった。
長年その喫茶店に通っている母は、常連だ。
マスター夫妻はもちろん、他の常連客と顔を合わせれば席を移り、よもやま話に華が咲く。
そのすきに一口いただいちゃうのはどうだろう。
虎視眈々と獲物を狙う獣のように、母がテーブルから離れる瞬間を今か今かと待っていたら。
敵は一枚上手である。
カップを手にして、するりと消えてしまった。
おいおい、今までそんなこと一度もなかったではないか。
母親の勘とでもいうのだろうか。
子どもが悪巧みをしていることに、薄々感づいている。
このままでは、早期撤退を余儀なくされる。何とかしなくてはいけない。


ここで作戦を変えた。
母ではなく父にお願いするのだ。
父はこどものお願いにはめっぽう甘い。
「お母さんが飲んでいるすごく良い香りがする珈琲を、一口だけでいい。
私も飲んでみたい。お母さんは大人の飲みものだから飲ませてくれないけど、
大人になるまで待てないよ」
と駄々をこねる。
父はお願いをすんなりと聞きいれるというか、私がそんな事を言いだしたのを喜んでいた。
「そうかそうか。そんなに飲みたいならお母さんが留守の今がチャンスだ、
内緒で作ってやろう」と、何やら実験器具みたいな道具をだしてきた。


    アートスペース油亀企画展 ​寺村光輔のうつわ展「陰翳礼讃」DM  


おおっと、これは何が始まるんだ、
あの飲みものはこんなに大がかりにしないと飲めないものかと、わくわくする。
「これはサイフォンと言うんだぞ」と、したり顔の父。
よくよく聞いていれば、無類の珈琲好きだと判明。
サイフォンの前で、いかに自分が珈琲を愛しているかと語り始める。
こども相手に珈琲への愛を語る父。
ちょっと語り過ぎだろう、早く飲ませてよ、帰ってくるじゃないかと、
さっきまでわくわくしていたのも忘れて、気もそぞろになっていたところに案の定、母が帰宅。
サイフォンを目にした母が、事の顛末を悟ったのは言うまでもない。
まあ、最後にはそんなに飲みたいなら、まずは一口飲んでみなさいと、
飲ませてはくれたのだけれど。


結果、すごく良い香りにうっとりしたのもつかの間、口に含んだ琥珀色の液体の苦さに悶絶。
「だから言ったでしょ」と苦笑いをする母が、角砂糖と牛乳をいれてくれったけ。


あれから、我が家はちょくちょく父がサイフォンで珈琲を淹れてくれるようになった。
母は淹れない。苦手だった理科の実験を連想して、どうにも使いこなす自信がなかったらしい。
それが原因で、私が父におねだりするまで、サイフォンは棚の奥深くにしまい込んでいたそうだ。
こうして、父は我が家の珈琲係として活躍することになる。
いや、今も、母のために珈琲を淹れているらしい。


一方、大人になった私は、父も母もいないアパートの一室に帰っている。
たまに寂しくなって感傷的になった日は、決まって思い出す。
私に初めて珈琲を淹れてくれた父を。そのきっかけになった母を。
二人のおかげで私は珈琲が好きになったし、あの光景がとても幸せなものだと知った。
そう、目の前で自分のためだけに、誰かが珈琲を淹れてくれる。
それはどこにでもありそうでない、特別な光景なのだと。


ああ、帰りたい。故郷へ、生まれ育ったあの街、あの家へ。
すごく良い香りがする飲みもの、珈琲を飲むために。


   


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